Dotoku・Mingei
土徳・民藝
城端絹の成り立ちと
地域文化
城端絹の発祥は約450年前、加賀藩の領地となった際に機織りの技術が持ち込まれたと伝えられています。養蚕が盛んだった山間部の五箇山から生糸を仕入れ、城端で絹織物を作り「加賀絹」として、京都や江戸へ運ばれました。最盛期の江戸時代には住民の半数以上が絹織物に携わり、町中にパタンパタンと機織りの音が響き、大いに栄えました。毎年5月に開かれる「城端曳山祭」が、その面影を伝えています。
民藝運動と
土徳の精神
土徳とは、その土地に根付く信仰心や思想を表す言葉です。民藝運動の創始者である柳宗悦は、かつて城端を「土徳が宿っている」と評しました。その拠点のひとつが城端別院・ 善徳寺です。勤勉で祈りを欠かさず、仏の道とともに生きる人々に柳は感銘を受け、ついに善徳寺の一室で民藝運動思想の集大成とも言える「美の法門」を書き上げました。民藝の美の本質を、浄土思想から見出した背景には、城端という土地とのご縁が大きく影響したと考えられます。
絹織物と信仰
手仕事と暮らし
日本の絹織物は、着物以外にも掛け軸などの表具として発展した歴史があります。古来より日本人は絹を神聖視しており、大陸から仏教がもたらされたのち、仏教絵画の表装や仏壇の扉、お坊さんの袈裟、教本の表紙などに絹が用いられました。 民藝は、風土性(土地の物語)を大切にしており、その土地の食文化、民謡、方言までもが、ものづくりに影響を与えていると考えます。城端でも、さまざまな要素が組み合わさって、絹織物など独自性のある手仕事が暮らしに根づいていったことがうかがえます。